数寄屋とは

数寄屋とは、和風建築においても特に風流で繊細な美しさを持つものです。ただしその内容については、茶の湯に深くかかわる建築として、「茶室」と同義に認識される場合や、自然的な意匠を持つことから「真行草」の位置づけをもって定義される場合、一方で「数寄」という言葉は「好き」、「数奇」といった言葉にも同義で、これにかかわる「数寄者」は、好事家、珍稀なものに執着する人物、といった意味合いも含まれていることから、趣味に任せて独創的につくり上げた建築もまた「数寄屋」である、という見方も存在し、人物により時代により定義の移り変わる非常にあいまいな性質をもったものです。

始まりは室町時代とも桃山時代とも言われていますが、侘びた景色を持つ書院座敷、千利休に代表される草庵風茶室等に初源を垣間見ることが出来、特に江戸時代に大きな展開を遂げました。古田織部の「鎖の間」の創案や、茶席へ書院座敷の格式を組込む小堀遠州の試み、織田有楽の斬新な意匠の新工夫など、武将茶人によってなされた大胆な創意がその後宮廷にも影響していきます。この中で江戸初期に八条宮父子によって50年をかけ造営された桂離宮は、洒脱な意匠を持った別荘建築であり、数寄屋造りの典型的手法が随所に現れています。
利休の創り出した厳しい緊張感を持つ狭小空間から、宮廷貴族の和歌を中心とした明るく上品な茶屋建築へ、さらに遊戯空間としての楼閣建築や揚屋、料亭、「いき」な文人文化の花開く江戸中期から後期に渡っては、住宅意匠への採用など、あらゆる「数寄屋造り」が生み出されました。

近代に入ると、西欧文化流入の影響により日本文化は衰退し、数寄屋もその後ろ盾を失いますが、後に富裕層の拡大や宗匠らの復興を遂げ、さらには戦況に伴う国粋主義的な風潮の中で和風が再認識されていきます。新たな和風を創出せんとする技師としての建築家は、あらゆる日本建築を研究対象としていきますが、簡素なたたずまいの中に近代的合理性を備えるとして、数寄屋造りは大いに注目され、ついには吉田五十八(1894-1974年)が新様式として「近代数寄屋」を提唱し、モダニズム建築に通じる新たな数寄屋を展開させました。

こうした流れを汲み、現代における数寄屋はやはり前時代の「近代数寄屋」のイメージが大きく直接的に影響していると考えられますが、今なお多種多様な側面を持ち続けている数寄屋とは、古今を通して建築様式の枠に収まることのない、日本固有の特殊な「文化」の一形態であるといえます。

藤森工務店

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